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第3章「生きるということ」

 生きるということはいったい何なのであろうか。人間は生まれて好きなことをやって死んでゆく。自分の一生であるのだからどう生きようが自分の自由であることは否定できない。しかし、本当の満足感や充実感というのはどのようにすれば 得られるのであろうか。確かにお金があれば病気になった時も安心であることは 確かである。しかし、本当にお金さえあれば満足して死んでゆけるのであろうか 。世の中には様々な教育機関があり、様々な問題に対して、様々なことが研究されている。しかし、今日の教育においては決して楽しそうには見えない出世競争 に時間の多く費やし、例えば大学受験に代表されるようにいやな勉強を無理矢理 「あめとムチ」で実践されることにより丸暗記の達人を作ることに力点がおかれ 、また大学に入ってからは友達を作ったりサークル活動に専念することがごくごく日常化されている。しかし、本当にこれが生きるということなのであろうか。

 私は前章で麻子のようなひとつの生き方を書いてみた。そしてそこで言いたかったのは今日の教育では研究された結果 を教えることばかりが強調され、「生きる ということ」との関わりあいについての議論をまったく軽視してきてしまったこ とに根本的な問題があるのではなかろうかということである。麻子の日記PARTUの終わりでパトリシア・ハリスという麻子の友人の祖父の物置にあった未整 理の写真の話をしたが、パトリシアの息子ジェフリーは高校2年の時にバスに両足をひかれ複雑骨折をしている。この時、息子のジェフリーの言い分と事故をお こしたバスの運転手の言い分がまっこうから対立し裁判になった。パトリシアは息子ジェフリーに「あなたは嘘を言ってないわね」と確認し、6ヶ月裁判所にジ ェフリーと通い続けた。パトリシアはこの時の6ヶ月間がジェフリーを大人にしたと思うと言っていた。だからパトリシアは今は大学に通 うジェフリーが女の子 とリビングトゥギャザーしようが何をしようがもう干渉はしないし、ジェフリー は自分の人生を歩んでゆけばよいと考えていると私に言ったことがある。人間は自分の考えを少しずつはっきり持っていくようになるような気がするが、こうした過程で大切なのはそれらの考えが自らの経験や感動にもとづいてひとつずつ確 立してゆくことのように思える。

 しかし、今日の大学受験を見ているとむしろこうした悲しいことや苦しいことなど様々な体験を自ら求めてするのとは逆に、できるだけそうしたことからは目を そむけ、ひたすら大学受験のための、別言すれば丸暗記により知能だけをアップすることに片寄りすぎた教育が黙認されてきているように思える。ジェフリーの 交通事故ではないが、障害児童の施設でボランタリー活動をすることや夏休みに共同生活をすることの中に様々な感動があり、人間が人生について学ぶのは単に 学校などの教育機関だけでなく神田の古本屋であったり、ファーストフードの店でバイトをした時であったりしてもよいはずである。 

 そして、世の中に反面教 師という言葉があるごとく、人間は様々の人からいろいろなことを学びながら成 長していくのではないだろうか。人間の教育に対する興味は本来本人の体験と感動の中から自然発生的に生まれてくるものと思われるが大学受験にあけくれ心に 残る体験としては受験戦争ぐらいしか体験していない今の大学生の心の中はあまりにも空洞化してしまっているのではないだろうか。 そして、大学自体も自分にあった仕事をするための楽しい努力を学生にみつけさせたり、そのための学問に対する興味を抱かせるようなことについてはやや不思 議というかあまり得意としていないような気がする。教える者と学ぶ者の間にギャップが存在し、限られた講義の中で自分がなぜ、そして何を講義しようとして いるというのかを熱意をもって説明し、この教える者と学ぶ者のギャップを共鳴と感動で埋める努力を惜しまない教育者は少ないように思う。これまで経済学に 対する興味を抱くようなケースをいつか例示してきたが法学部の学生にも同じようなことは言えると思う。憲法や民法の講義で法律上自然人と法人があると言わ れても、サル知識にしか思えないのは、よくわかる。しかし、それでは自分ならどうするかがポイントのように思える。民法の譲渡担保にしても手形法の有価証 券性にしても、それぞれの概念の組み上げはいかにもグッドアイディアであり、他人が長い時間をかけて考え体系化したものを利用しない手はないと気付けば5 月病は克服できよう。そして、こうした体験の中から様々興味を抱き、そのことについて学んでゆくというカリキュラムは大学教育のみならず小学校、中学校、 高等学校といった教育レベルでも少なくとも今以上に組み込まれてしかるべきではないだろうか。

 社会の中にある多くの楽しい努力や仕事に慣れ親しむために、小学校においては、教室をはなれた体験を通 じて様々なことに興味を抱かせること、あるいは感動 を与えることがもっともっと行われて良いように思える。また、中学校において は「ボランティア活動、特に身障者の人などあまり我々が気がつかない人に対する配慮」や「鉄がどのように作られるか」といった社会の仕組みについて現場で 体験させてこそ生きた教育の基礎ができ、また学ぶ意欲のきっかけをなすように思われてならない。発展途上国での地下水開発などはつらいが、そこには水が出 たときの感動があり、いくら国際協力で事業団でこうしたビデオを用意してもほとんど利用されないのは、いかにももったいない気がしてならない。また、高校 教育では、自分が仕事としてやりたいことをもっと意識させるようなチャンスをあたえてゆく必要があるのではないだろうか。いわゆる耳学問だけで心に通 じな いなら体験させることも必要となってくるように思われる。橋をかけたりダムを 作ったり環境問題や公害訴訟に興味を持たせること、そしてそうした中にされざれの感動を持たせることも立派な教育だと思う。大学教育においては大学が宝の 山であることをもっともっと時間を割いて説明すべきではないだろうか。なぜならば大学が宝の山と思えない学生の大学生活は、ちょうど要を失った扇のように まったく意味をなさないように思えてならないからである。また、大学院については入学制度的にも在学中の資金的にももっともっと実務経験のある社会人が社 会に貢献するための知識を体系的に学べるような改革を断行してしかるべきのように思えてならない。

 そして、今日のようにメディアや通信が発達し唯物史観的にもいやがいおうでも 我々自信が自らの変革を強いられている中で年齢に応じた動機付けのあり方も当 然変革を強いられるだろし、また様々な教育に関する国際的なケース・スタディーについての比較検討が行なわれるべきだというように思える。私は個人的にア メリカのビジネススクールでアドミッション・コミッティーのメンバーを担当したことがあるが、大学の学部を卒業した学生のうち実務経験のある人間の方が大 学院の入学判定時にはアドバンテージを持っている制度になっていた。このことは、アドミッション・コミッティーのひとつの目的が様々の経験を有した人間に よってクラスを構成することにより各人が他のクラスメートからも多くのことを学ぶようにクラス編成することに起因している。ベトナム戦争の経験者、マイノ リティーと呼ばれる少数民族出身者、皮膚の色、男女比率などが検討された上で各人が他のクラス・メートを触発し、またおたがいに貢献し合えるような形での チームが構成されることになる。また、こうしたことから学期末の成績評価時においても、クラス・コントリビューションというのが評価対象となる。いってみ れば、そのセメスターで当該学生が何回発言し、その発言が他の生徒にとってどのような貢献をもたらしたかということである。授業中教官は学生に対し、Any Question Or Commentsという質問を繰り返す。そしてどうも教官の説明がわかりにくい学生が多い場合 に、ある生徒の質問もしくはコメントがわかりにくい理由なりをより鮮明にし、他の学生もその質問もしくはコメントにより問題の所存を明確に把握するような ことになればその生徒のクラス・コントリビューションにアドバンテージが与えられる。そしてそこには単に教えるだけでなく学生が自ら学ぶことを指導するリ ーダーとしてのもうひとつの教育者象があるように思えてならない。

 過日、NHKテレビで世界のユニークな教師という海外ドキュメンタリーを見たが、この中では手品などを使って教える大変ユニークな教育方法がいくつも紹介 されていたし、またハーバード大学で導入されているケース・スタディー方式なども具体的にはどのような形で行なわれどのようなことをねらってやっているの かは意外と知られていないようなきがする。また、これはやや極端な例であろうが、ボストン刑務所では試験的に刑務所内に大学を設置し、ボストン大学のボラ ンティアの教授により講義が行なわれ修了者には学位が与えられる。また卒業式までが通 常の大学と同じように角帽にガウン姿でとり行なわれている。受講者の 一人は刑務所でプラトンを読むのは皮肉だが大学のカリキュラムの中に数多くの 興味を発見したと言っている。日本ではよく先生が授業時間の大半を黒板に向い、生徒に先生が黒板に書いたことを書き写 させたり、生徒に赤鉛筆と定規を出さ せ、教科書の重要部分に線を引かせることがあっるが、こうした授業は事前に生 徒がその内容に興味を持ち自分なりの理解を持った上で、先生の考え方と自分の考え方を比較するところに意味があるように思えてならない。アメリカでは黒板 に書くかわりに先生のノートのコピーを事前に配布し、授業ではその内容を順番にディスカッションすることに時間を当てるケースが多いがどうもこの方が合理 的にも思われる。

 麻子は、ブルックリン・ハイツの下宿の書棚に並べた自分の体験と興味を抱いた事柄に関するドキュメンタリーなどの各種ビデオの整理にとりかかっていた。と いうのも、ゆくゆくはいつか大学の講師にでもなってこうした興味のあり方や学 問を学ぶための動機付けの講座を担当してみたいとひそかに熱望していた。麻子 は今日の教育における問題点は教育する者と教育を受ける者の間に大きな溝というかミューチュアル・ミスアンダースタンディングが存在し、今日の教育に最も 欠けているのはこの溝を埋めるような手助けというか努力が教育の現場で計画的にはまったく行なわれていないことのように思えたからである。そして、麻子は 日本から送ってきたビデオのうち日曜日の朝の「住めば地球」という番組で世界で様々な価値観のもとに様々な生き方をしている日本人を紹介しているビデオな どはビジュアルな映像として個々の人間の人生の選択肢を広げる意味では大学教育に取り入れてもよいように思えたし、またベルリンの壁を撮り続けた橋口譲ニ さんや川崎市の主婦でウズベク、カフカス地方を旅した安田礼子さんの体験談なども学生には参考になるように思えた。なぜなら、学生がそうした様々な人生の 豊さについての異なった考え方に感動を覚え、その感動が学ぶ意欲や学ぶ方向付けのチャンスになることが期待できるからである。ナチ政権のゲッペルスがオー ストリアで行ったファシストとしての行動は知られていても彼が6人の子供と妻を殺し自殺したことにはあまり知られていない。ボリビア日記で知られているチェ ゲバラを追いつめたボリビア軍の指揮官が日系人であったことも左翼学生の間ですら意外と知られていない。また、大学教育を受ける前段階で、例えば、中央ア ジアのウズベク、トルクメン、キルギス、タジクといった共和国に住む35万人の朝鮮人が1937年秋にどのようにスターリンにより移住させられたかであるとかハ バロフスクからタシケントへ貨車で強制連行された朝鮮族は18万人いることや、また1914年9月、カザフに住むドイツ人はどのような強制移住を強いられたかとい ったCBSやNHKのドキュメンタリーを見せ、何を学びたいかの選択に充分時間をかけ様々な選択肢の中から工学をやりたいとか理学をやりたいのか経済をや りたいのか法律をやりたいのかといった選択を学生にさせることも必要のように麻子には思えた。

 経済を学ぶための前提として、経済学に適した知能があるかを判定する大学入試も意味があるのだろうが、学ぶ興味を持たすことそして興味を意欲につなぐこと も大学教育の一部のように思える。学びたい人には広く門を開き、学ぶ意欲を持てない人に他の多くの異なった生き方についての選択肢を提供していくのが教育 の本来のあるべき姿であろうし、また人生における充実感なりを学ぶことの価値の中に見い出させ、他人から見れば努力とみられるようなことを人生のひとつの 満足感を手にする手段として日常生活に取り組んでゆくことが生きるということと考える私の考えは誤りなのだろうか。




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