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HOME > 第1章 「麻子の日記PART1」 麻子は、1990年3月4日、ニューヨーク現代美術館にARTとして展示してある次の 一文の前で足を止めた。 「わたしの人生の事を書いて欲しいって、おまえは頼んだね。 決心して書きはじ めるよ。今日は、1982年1月22日、わたしは、80歳になった。 わたしの ことの前に、まずわたしの家族について書いておかなくちゃ。長いことね、わたしはとってあるんだよ、父さんの出生証明書やらなんやら。父さんはブレンスキー村、オトプリャススキー郡トラブの小さな町の生まれで、なかなかのブルジョ ワだった。母さんのことについては、なんにも覚えていない。父さんも母さんも 孤児だったんだけど、子供のいない夫婦にひきとられたんだ。つまり父さん母さ んは、同じ養い親に育てられたってわけさ。長いことずっとね、このむかしむか しの人たちの写 真も大切にとってあるよ。ふたりが大きくなると、母さんは女中 奉公に出され、父さんは仕立て屋の見習いに出された。成人になって父さんと母 さんは結婚した。」 そして、麻子は、ニューヨーク現代美術館に展示してあるロシアの1993年UPRAINA 生まれで、1957年MOSCOW芸術大学のGRAOHIC科を卒業したILYA KABAKOV(イリ ヤ・カバコフ)のこの文章の書き出しが気に入った。なんとなくドクトル・ジバ ゴを想い出させるようなその文章は、イリヤ・カバコフの「母の生涯U」という 修理中でカンナ屑やペンキのカンやらが粗雑に放置された部屋室そのものを現代芸術の作品とした展示の中で壁に延々と書記された文章の書き出しである。麻子はも ともと現代美術と言うものは単なる思いつきのような気がしていた。しかしニュ ーヨークに住みついてから既に5年が経過し、その前の大学院生活を入れるとか なりの時間を海外で過ごしていることになるのだが、雑誌で見かけた今回のニュ ーヨーク現代美術館の[ART OF EDGE]という作品展には、魅力を感じていた。このILYA KABAKOVの他にも今回の「ART OF EDGE」ではドイツのINGO GUNRTHR(インゴ・ギュンター)やアメリカのMIKE BIDLO(ミクロドビド)の作品郡が展示されていたが、具体的には真っ暗な室に大型の送風機を持ち込みアメリカの星条旗をゆっくりと旗めかせ、それにブルーぽい照明をあてたものや、室の入口に様々の古靴を接着剤で固定したものなどで特にカバコフの作品を展示する室内には、まるでブレジネフの死んだ日に当局が流したような重苦しい音楽がながれていた 。麻子は作品展を見た後、出口に近いホールのところでコーヒーを飲みながら来 場者が感想を書き記したノートになんの気なしに目を通 した。 「これで芸術と呼べるなら世界中に美術館はいっぱいあるでしょう。幼稚園という名の。」 「最後まで、興味が湧かなかった。」 「入館料、高い。返して。」 「いいものを見せてもらいました。それにしてもえらいお金がかかっているので は。」 「自転車置場がないことを外の門の所に書いておけ。自転車を置きにもどるのに 5分はかかったぞ。」 「古靴がたくさん置いてある作品の室に入ろうとしたおじいちゃんが、その室が靴をぬ いで入るものと勘違いして、室を覗き込んだ後、自分の靴も脱ぎだしたので家族全員、笑い転げてしまいました。」 「これらの作品の本当の価値は私にはよく分かりませんが、こういう空間は私は 好きです。」 「いいんじゃないですか。そう思いますよ。」 「理解ができない。私には…」 「古靴だけの作品は人の表情が見えないので恐かった。」 「だいたいわかった。」 「芸術家は気が変な人が多いようです。こっちまでおかしくなりそうです。」 書かれた感想文に思わず「力作ぞろいね」と麻子は苦笑したが、麻子も、その日曜日の午後にセントラルパークに近いこのニューヨーク近代美術館の出口に近いロビーで、誰でも自由に感想を記入できるその大学ノートに書かれた今回のART OF EDGE の感想文を見た時、彼女自身の感想とどれもが一致しているように思えた。 麻子は今ウォールストリートのインベストメント・バンクに勤めながらブルック リンハイツの下宿で一人住まいをしていたが、よくよく考えるとこの下宿の建物 の内部は通路にしろ階段にしろ室内の壁にしろ、ちょうどART OF EDGEの中のイルヤカバコフの作品でペンキのカンやカンナ屑や廊下の壁下の壁にたてかけられ た使い古されたモップが無造作に放置された「母の生涯U」という題名のそれで いて単なる「修理中の室」そのものの作品に似ているなと思った。ただ、彼女の室はちょうどブルックリンハイツでも南西に位 置しており、西側の窓からはイー スト・リバーにかかるブルックリン・ブリッジとワールド・トレード・センター が、また南の窓からはスタチュー・オブ・リバティーとスタッテン・アイランド が見透せる角部屋で、窓辺にアルミニューム・プラントやセントポーリアが置か れたなかなかコージーな雰囲気があり、麻子はこの室での一人住まいが気に入っていた。 室の書棚にはかなりの書物が置かれていたが、ちょっと変わっているのは何冊も の大学ノートが並べられていることであった。これは麻子の日記のようなもので はあったがやや違うのは通常の日記であれば、まず日付がありその後にその日の 天候が記されるのが通 例であるが、並べられた大学ノートに日付や天候はなく、 それは麻子がやりたいことや図書館へ行って調べたいことがたくさんありすぎる ために、それらを整理しテーマ別のラベルを貼った一部はやや黄ばんでしまった 何十冊もの大学ノートであった。 そしてノートの中にはテレビのビデオをとった がまだ見ていないドキュメンタリーや芸術関係の催し、DAVID LINDREYのコンサー トの予定などが記されていた。麻子はいつも興味を抱いたテーマは在庫しておい て暇ができた時テーマ探しをすることがないよう心がけていた。ひとつのテーマ に行き詰まったらとりあえず次のテーマに飛びうつり、それに行き詰まったら元 のテーマに戻るという形を麻子はとることにしていた。 そして、そうした一群の興味ばかりをテーマ別 に分類した棚の下の段には、冒頭 に記したイリヤカバコフの「母の生涯U」ではないが、前途した自分が興味を持 ったことについてのまとめや書籍の読後感、新聞記事などに対するコメント、コ ンサートやテレビで見たドラマやドキュメンタリ−あるいは映画の感想などが書 かれた大学ノートが年代順に並べられていた。旧いものでは彼女が中学生の頃、 どのような本を読みどのようなことを調べたかが書かれていた。 麻子の日記の中には例えばジェフリー・ピカードの話が書かれていた。ジェフリ ー・ピカードは麻子も男友達で結構馬が合ったこともあり、大学近くのヘイ・マ ーケットにある100年以上前から営業しているレストランのユニオン・オイス ターハウスへ出かけ、ケネディーが好んで利用し、テーブルに「ケネディーの暗 殺をいたむ」とのプレートがついた席でよく話し込み、食事の後サムナー・トン ネルとキャハラン・トンネルの二つの海底トンネルで結ばれる悼頭を抜けローガ ン・エアポートの先の岬までドライブした仲であった。ジェフリーは大学卒業後 、ハーバード・ビジネス・スクールへ進学し卒業と同時にウォール・ストリート のインベストメント・バンクで仕事をしていたが、今はイタリアでアマチュア考 古学としてアンモナイトの発掘をしているという。麻子も最近アメリカのダイビ ング・マニアの間ではハイチのダイビング・スポット探しなどがすたれ、夏のバ ケーションをバミューダー諸島などに沈む海賊船の考古学プロジェクトにボラ ンティアとして参加することで過ごすのがはやりとされているという話を聞いた ことがあるが、ジェフリーのようにイタリアまで行ってアマチュア考古学者にな ってしまうような話しはまだ聞いたことがなっかた。 また、麻子の日記の別のページにはケンドール・スクエア−のパロットというサ ンドイッチ・ハウスでよくターキーサンドを食べた仲のジム・メイズのことが記 されていた。ジムはマサチューセッツ工科大学の博士過程を卒業しながら今はヨ ットマニアにニューヨーク、コネチカット、ケープコッド、メインといったアメ リカの東海岸の潮流とプライベート・ヨットが潮の干満で橋の下を通過できる時 間をコンピューター通 信で流すことを仕事にしていた。ジム・メイズはベトナム 戦争にも参加しているが、彼はパロットで昼食をしている時に、「やりたいこと がたくさんあって日本人のように出世競争や必要以上に貯金をする為に時間をさ くのであれば自分の興味のあることに時間を費やしたいし、どう考えても限られ た一生の中ではやりたいことをやるだけでも時間がたりない」と言っていた。ま た彼の話によれば彼がマサチューセッツ工科大学で取得した博士号についても出 世競争や金もうけのために努力したのではなく、自分の興味あることを学びたく て努力した満足感や充実感の方が人生にとって意味のあることと今も考えている ようだった。麻子は、お金がなくてもあまり将来に不安を抱かないジム・メイズ に、日本人と根本的な考え方の違いというか、別 言すれば終戦直後の日本におけ る阿鼻叫喚をまったく知らないアメリカ人との生活体験の異質感のようなものを 覚えた。 そして他方で経済的にも豊かになった日本において、大学を卒業するのに必要だ からという理由だけで苦しみながら卒論を書いたり、ターミナル駅の通 行人の数 を数えることで共同卒論としてくる先生のゼミに学生が集中している現実はどこ かで間違いというか、ねじれ現象を起こしてしまっているようにも思えてならな かった。こうして考えると日本人はパンダに始まり受験戦争、バイク、ロック、 出世競争、テニス、テレビゲームなどあまり選択肢のない中でまるで次から次に 麻疹にかかるように皆同じ競争社会をたどってゆくケースが多いように思えるが 、この点勉強のプレッシャーもなく自らの興味の赴くままにイタリアでアンモン 貝を発掘したり、ケープコッドで潮流のコンピュータソフトに熱中するジェフリ ーやジム・メイズが麻子には羨ましく思えたりもした。ジム・メイドは、「不得 意な勉強で努力するよりも、まず楽しく努力できるものを探した方が勉強の不得 意な子供と呼ばれずにすむから」といって笑ったことがあった。 もう何年も前の事になるが麻子がアメリカの大学へ来た当初、まず落第しないよ うにと図書館と教室と下宿とを自転車でかけずり回っていたが、しばらくして大 学の図書館やコンピュータセンターが24時間使用可能であり、むしろアメリカ 人は自分の好きな時間に自分の興味ある勉強を自分のペースで勉強していくこと に気がつき、麻子は麻子自身の生活ペースというものをつかめるようになってい った。そして麻子には自分の勉強の場所と決めた学校の中にある蒸京図書館(イ エンチェン・ライブラリー)で何となく、アメリカの教育というものがわかった ような、そして今自分の居るキャンパスこれがアメリカの教育機関なんだといっ た印象を持った記憶がある。要するにアメリカの大学は卒業することよりも金を 払ってまで何かを学びたい学生が目的をもち自ら希望して学びに来る場所であり 、卒業することよりも学ぶことに力点がおかれている点に麻子は戸惑いを覚えた が、他方で麻子にはこれまで大学ノートにまとめてきた様々な興味をひとつずつ この蒸京図書館(イエンチェン・ライブラリー)でゆっくり調べられ、その中で 特に学んでみたい授業を自由にとれることが御馳走の山のように思えた。そして まさにこの蒸京図書館(イエンチェン・ライブラリー)はエドウィン・オー・ラ イシャワー氏が自ら学生に教えることを楽しみ、自らの研究に没頭し、また自ら の意思により自分の生命維持装置のスイッチを切りその生涯を閉じるまでの間を 静かに過ごした場所でもあった。 -> 第2章 「麻子の日記PART2」 -> 第3章 「麻子の日記PART3」 |
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